アンナプルナB.C.へ(上)
1992年3月1日~2日
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チョムロンからトレッキング最後の目的地アンアプルナB.C.(ベースキャンプ)に向かう。 この道には現在(2020年)も車道は無く歩いてしか到達できない。 |
『3/1 7時半:チョムロン(1951m)出発~15時:ヒマラヤホテル(2873m)着。(泊) 昨日の午後は下りを快調にとばした反動か今日は足が重い。直線距離は10kmほどだが1000m程登り、又下りもあり1日かかる。道は灌木の生えた狭い谷の中腹にある石の階段が多く、足にくる。 *ネパールの若者 ヒマラヤホテルには15~25才の男性4~5名が働いている?。ビリヤードとおはじきを合わせたような、ネパール中どこでもやっているゲームをしながら、何人かは屋根にする竹のすだれを編んでいる。夕方になるとコックに早変わりして以外に美味いものを食わせる。おしゃべりとゲームと少しの仕事。着るものはぼろでも生活を楽しんでいるようだ。 ここでもそうだったが、少し英語が出来る若者は日本人とみると話しかけてくる。用件は「日本で働きたいので身元保証人になって欲しい」ということだ。日本人の保証人がいれば日本で働けるらしい。もし身元保証人を引き受けたら、彼の人となりを調べる必要があり、それには2~3日掛かりそうそうである。さらに書類関係にも日数がかかるだろうし、トレッキングの合間に出来る事ではないので、全て断った。』 灌木生えた狭い谷の中腹を歩く マチャプチャレが近ずく 天まで続くと思われる石の階段、ロバや水牛も荷を背負って登り降りする 3/1 ヒマラヤホテル 『3/2 8時:ヒマラヤホテル(2873m)出発~11時半:マチャプチャレB.C.(3650m)~14時:アンアプルナB.C.(4130m) 出発してすぐに雪道になる。ポーターはズック靴に薄い靴下なので、厚い靴下をプレゼントしたが冷たそうである。 今日は昨日に比べ歩きは快調。マチャプチャレB.C.までの予定だったが念願のアンアプルナB.C.に来てしまった。しかも到着時刻まで天気は快晴。到着後も雲の間から鋭く尖ったマチャプチャレや他から見た時は鋭く見えたアンアプルナI峰が赤茶けて大きく広がった姿をみせていた。 生まれて初めて4130mの高さに来たが、この1週間のトレッキングの成果か、高山病の気配は出なかった。いや、ボーっと山を眺めていたのは高山病のせいかもしれない。』 宿から1時間ほどでヒンク(Hinku)の岩屋 (帰り道で撮った写真) 道は雪道になる いよいよ谷合の道が終わりに近ずく マチャプチャレが真近になる 11時半:マチャプチャレB.C.よりマチャプチャレ(6993m)を見上げる ネパールのマッターホルン? マチャプチャレB.C.を左に曲がるとアンナプルナが見える。 どちらの写真も左は Hinchuli,右はアンナプルナ南峰 アンナプルナ南峰(7219m)が大きく見える 雪のない近くの山はテントピーク(進行方向右にある) アンナプルナB.C.が近ずく。左アンナプルナ南峰、中央Fang7647m、右アンアプルナI峰(8091m) (2枚の写真を合成した) 振り返ってマチャプチャレB.C.方面を望む 尖った山はGandharbaChull(6248m) マチャプチャレ 14時アンアプルナB.C.着 アンナプルナ南峰は見上げるようだ 同宿者はロシア人2人だった 夕日に輝くマチャプチャレ 同宿のロシア人は2人とも赤いヤッケを着ていた。実は真っ赤な国旗のソ連は1991年12月に崩壊し、ロシア等に分裂してからこの時はまだ半年も経っていなかった。祖国の混乱期にヒマラヤで登山をしているのは?彼等とは名前と国籍程度の話しかした覚えはないけど、後から考えるともっとソ連、ロシアの事を聞いてみればよかったと思う。経済や政治関係の英単語はチンプンカンプンだけれども。彼等2人が祖国に居ても歴史は変えられないと思うと、混乱期に外国から祖国の変化を見極め、情勢が落ち着いてから帰国するのが賢いのかもしれない。いや、帰国しようにも帰国できない事情があるのかもしれない。右のロシア人の名前はプーチンだったかな? 3/3下山路の雪のない所で撮った高山植物らしき花、まだ冬のせいか草花は少なかった アンナプルナB.C.へ(下) へ行く プーンヒルへ へ戻る トップページ へ戻る |