マルファからタトパニへ
1992年2月24~27日
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当時のムクチナートからタトパニに至るジョムソン街道には5~10kmおきにバッテイ(茶店)があり、 食事や宿泊が出来た。街道ではロバや水牛が大きな荷を背負って歩き、バッテイではトレッカーがダウラギリ、ニルギリを眺めながらお茶を楽しんでいた。江戸時代の東海道は多分がこうだったのでろう。 ジョムソン街道は次の目的地プーンヒルへのアプローチだが、このトレッキング自体も楽しいものだった。 今はムクチナートまで道路が出来、車で観光ができるので、歩く人は少ないようだ。 |
『・・・』は当時の手記
『2/24 16時半マルファ着。ムクチナート、カグベニと比べると格段に大きく清潔な村に見える。宿はニュウ・ダウラギリ・ロッジ、夕食はネパール風スパゲッティ(辛いが量は多い)60Rs、野菜のボイルしたもの25Rs、朝食はお粥とミルクティー、部屋代(20~30Rs)を含め総額は150Rs、 夕方から寒くなる。ホテルのコタツで日誌をつける。(コタツ:テーブルに布団をかぶせ、中に火が入っている。日本の登山隊によって普及したとか) その後、約2ヶ月の休暇で来ているという2人のドイツ人女性と3時間程ゲームをして遊ぶ。ゲームはファイブダイスと言って5個のサイコロを振って遊ぶもの、初めてやったが面白く夢中になる。ルールは簡単だが運と頭を使う所があり、初めてでも対等に出来た。』 ロバの隊商 宿のリビングルームのコタツ 『2/25 宿の人の案内で、村の崖を登った所にある信仰のための岩を見に行く。しかし、岩よりもマルファ村の美しさに目を奪われる。この村は日本人の指導でリンゴの栽培が盛んだということだ。 9時 村の中でポーターを探すが、なかなか見つからない。しかし、隣村トクチェまで45Rsで見つける。 11時半 トクチェ(Tukuche)着。次のポーターを探すが、見つからないので自分で担ぎ、歩きだす。30分程広い河原を歩くが、後ろから来た人に声をかけ、カロパニまで運んでもらう。 道は一日中カリ・ガンダキ川の河原か河原の脇にある道を歩く。登り下りはあまりない。 16時 カロパニ(Kalopani)着。』 マルファ町 上に見える白い三角形まで登る ペイント・チョルテンと言うらしい チョルテン チョルテンから見たマルファの町 チョルテンから見たマルファの町 午前中のポーターD氏 ダウラギリに向かって1日中歩く 午後のポーターE氏 1日広い河原を歩く ツクチェピークからの雪崩の雪煙 ダウラギリが近ずく 宿のベッドルーム(持参の寝袋で寝る) 『2/26 8時、カロパニ発ーー10時半、ガーサ(Ghasa)ーー12時~13時昼食(Kabre)ーー16時タトパニ(Tatopani )着。ここには温泉がある。 夜は雪がぱらつくが、昼間は快晴。カロパニは街道中ではダウラギリとニルギリまでの最短距離にあるので、朝は撮影タイム。歩き始めて40分程荷を背負って歩くが、そこでポーターFを雇う交渉をする。そこへマルファの宿で話をした他のパーティーのポーターYが来て、ガーサまで70Rsで話を纏めてくれた。しかし、Yは自分の重い荷をFに担がせ、私の軽い荷を自分で担いでいる。さらに、歩きながらYは今日の宿タトパニまで後100Rsでどうか、というのでOKする。しかし、宿に着くとYはFの分の食事代を払ったので70Rs+150Rsだという。歩きながら今日はお金の事にこだわらず、おおらかに行こうと決めていたので、交渉せず言い値を払う。 道は昨日の河原歩きから一転して峡谷沿いの道になり上り下りが激しい道だった。 夜は日本人3人と食事。マウンテンバイク部の2人の女子学生は自転車をポーター(食事付き、150Rs)に担がせここまで来たらしい。もう一人は26才の男性。』 ダウラギリI(左端) ニルギリ 峡谷沿いの道を歩く ダイスの好敵手と 標高が下がり畑が出てくる バッテイでの昼食(もう一人のダイス仲間) 中央に立っているのはY氏、その左がF氏 皆いい顔をしている、初めて写真を撮られたから? 川幅が狭くなり、吊り橋もある 山の中腹にも集落が 山に緑が見られるようになる タトパニ村 『2/27 疲れと温泉に入るため一日停滞することに決める。昨日タトパニまで抜きつ抜かれつした数パーテイも同様である。朝温泉に入りながら近くの川で洗濯し、部屋の前の庭でたまった日誌をつける。20m程むこうではマルファの宿でダイスをしたドイツ人女性2人も読んだり、書いたりしている。夜はこの2人と又ファイブダイスをする。 2日分の宿代は食事代を入れて約500Rs(宿のシステム:部屋代は20~30Rsだが食事は必ずその宿で取る。何を食べたかにより食事代は決まる。27日の夕食は奮発してグリルドチキン120Rs)。 昼間は景色を見ながら自分のペース1~2時間歩き、バッテイでお茶を飲み昼食を取る。夜は居合わせた人としゃべりながら夕食をとり、眠くなったら寝る。初めの頃の緊張感が薄れ、街道トレッキングを楽しむ余裕が出てきた。 *ポーターについて:雇うときは半日行程の所までがよい。彼は終わったらその日のうちに家に帰れる。 *当時のトイレ事情:ムクチナートの小さな宿にトイレはなかった。大をする場合、外の物陰か夜間に適当な所でする。すると、放し飼いの鶏や豚が直ぐに来て跡形もなく処理してくれる。 さすがに他の宿にはトイレはあった。が・・・、トイレに入る時ミルク缶程のバケツに水を入れ持ち込む。トイレには2枚の板が渡してあり、その下は穴ではなく平らで前方に向かって傾斜しており、前の壁に穴がある。大をした場合、紙は箱に入れ、大を水でその穴からトイレの外に流してしまう。紙が無い人は水でお尻を洗い残りの水で流す。トイレの外は中庭で、鶏や豚が御馳走を待ち構えている。なので、匂う暇もなく、処理される。さらに、夕食代を奮発すると、美味しい生きのいい地鶏(チキン)が皿に乗って出てくる。』 2日間泊まった部屋 タトパニの温泉、湯船は2つあった プーンヒルへ に行く 聖地ムクチナートへ に戻る トップページ へ戻る |