グルジア(ジョージア)横断歩行・後
ロシア皇帝ニコライ二世の宮殿に泊まる
2000年9月9~13日 |
ジョージア東部 |
9/8 歩行後車で宿のあるボルジョミに向かう。ボルジョミに着いてもギアは2,3度道を聞いていた。
18:30 やっと宿を探し当てる。宿の名はパレスと言うらしい。 ボルジョミのパレス:9/8から2泊した宿は部屋を案内してくれた女性の説明では、特別な人しか宿泊が許されないロシア皇帝の屋敷との事。歴史等の説明もしてくれたが、予備知識も無く私には説明がよく分からなかった。私の当時のメモには「宿はニコライ二世?の造った別荘」、また、私の写真集にはロシア皇帝の別荘(スターリンも泊まる)とあるが、それ以上の感想はなく、昔の皇帝が1~2度泊ったホテルの部屋、程度の認識で泊っていたようだ。(当時はニコライ二世とはどんな人物かは知らなかった) 土屋作「日誌グルジア踏破」から引用すると『案内の女性は英語で誇らしげに当屋敷の歴史などを説明している。英語がわからないのでベランダをうろうろしていたが皆の話を総合すると、帝政ニコライ時代の貴族の屋敷でパレスと呼ばれる屋敷らしい』他のメンバーのこの屋敷に対する認識もこの程度だったようだ。 「日誌」をもう少し引用する。『玄関を入ると赤絨毯を敷き詰めて正面に大理石の広い階段、登ると逆Tの廊下、左がメイン寝室、入口扉が二重にある。入ると60畳ほど正面窓際にベットが二つ密着して配置されている。右壁には大きめの洋服ダンス、左窓際にはソファと低いテーブル、その前に4人客位の食卓、入口左には書棚。その隅にフロアスタンドが一本置いてある。右隅には小さな冷蔵庫もある。窓には全て上下式の白いレース、部屋側には左右開閉の明るい青いカーテンの二重張り。天井には電球が皿状の曇りガラスのシェードで覆われたあまり大きくないシャンデリア。壁面の桟に当たる部位に20cm角のタイルに各種の蝶が一匹ずつ描かれて部屋の全周囲に並んでいる。通称バタフライの間、スターリンが保養にきたとき泊った部屋と案内の女性から聞いてすっかり石塚気に入り今夜からの同宿者を求むので土屋対応する。・・・・階段を登って右はメイン室用のバス・トイレルーム(大きなバスタブ但し栓が見当たらない、電気温水器、水洗トイレ、休憩用椅子あり四畳半サイズの部屋)階上へ登る螺旋鉄階段、二階ベランダへの扉がある。正面廊下の左右は従者のベットルームで和田、新井、安藤、荒井はこちらに入る。』(石塚、土屋がバタフライの間で宿泊、私は子供部屋らしき所)食事は別棟の食堂で食べたが、食後はバタフライの間が飲み会の席となった。 このH.P.を書くにあたり、我々が宿泊したパレスが現在どうなっているか、探してやっと探しあてた。ボルジョミの中心地から南西1km程にあるRomanov Palace だった。 Romanov Palace(ロマノフ宮殿):ロシア皇帝ニコライ二世が1895年、ジョージアのボルジョミに建てた夏の住居としての宮殿。フランス皇帝ナポレオンから贈られたテーブル、イランのシェイクから贈られた椅子、寝室の壁に蝶が描かれていることで有名。現在この建物は歴史的建造物として展示するために改装中らしい。(建物外観の写真、部屋に蝶が描かれていることで我々の宿泊したパレスとの一致を確認) ニコライ二世は皇太子時代に来日し、大津事件(日本人警官にサーベルで襲われ負傷する)に遭遇、皇帝の時に日露戦争で敗戦、最後は十月革命でボリシェヴィキにより銃殺された。 歩行当時はパレスというのは屋敷の名前と思っていたが、パレスとは文字通り宮殿だったようだ。この様な由緒ある宮殿に2泊もした事に今更ながら驚いた。歩行当時はいきなりこのパレスにつれていかれ、ニコライ二世の予備知識も無く、屋敷の説明も理解不足でこの様な由緒ある歴史的建物とは思わず、我々は普通のホテルのつもりで対応していた。許可を得て部屋で飲食をしたが、今から思うと冷や汗ものである。私の寝たベッドは皇太子か皇女の寝たベットだったようだ。 我々がこのパレスに泊れた理由を類推してみると、当時はソ連から独立してまだ10年でソ連時代の遺物は重要視されず、VIP用のホテルとして実際に使っていた。また、土屋作のボルジョミの描写に『薄汚れた10階建てのビル、所々のベランダには洗濯物や青いシートが見える。かっては保養所かホテルであったにちがいない。今は難民宿舎のようだ。』とあるように、内戦で難民となった人々がホテル等に収容され、ボルジョミはホテル不足であった。さらに、歩く会の後援者トーメンの力もあって我々が特別な人として扱われたのであろう。 ボルジョミBorjomi:ジョージア中央部にある温泉(約30℃)と美しい自然で有名な観光地。ボルジョミという銘柄の炭酸水は輸出品として上位にあり、近隣諸国で愛飲されている。 9/9 午前中はゆっくりし、午後は昼食ついでに温泉の源泉と公園に行く。夕方はパレスの前の城跡に皆で登る。 Romanov Palace パレスの正面 パレスの側面 私の部屋のバルコニーから パレスの裏側(庭側) パレスの皇帝の部屋(バタフライの間) ボルジョミの温泉の源泉 公園のモニュメント クラ川を渡る分解寸前の吊り橋 城跡から見たパレス 城跡の6人 9/10 歩行5日目 歩行区間:Khasuri先ー>Agaraー>(Gori)ー>Igoeti (Gori泊) 歩行者:1班 土屋 2班 新井、安藤 3班 和田、石塚 ナビ 荒井 歩行距離:各班29km 合計87km 8:50 パレス出発。 9:30 1班歩行開始 10:00 2班(私の班)歩行開始(460km地点) 13:15~45 昼食 17:30 2班歩行終了(489km地点) この日の宿泊地Goriにはスターリンの生家(スターリンはジョージア人)があるので夕方見に行く。 歩行開始地点の風景 1日中この様な風景の所を歩く 道はGoriの町を迂回している 2班の歩行終了地点、安藤(左)、新井 3班もここが歩行終了地点 左端、世界で唯一残っているスターリンの銅像、建物は博物館 スターリンの生家 (2010年にこの像は撤去された) 9/11 歩行6日目 歩行区間:Igoetiー>Tbilisi(トビリシ)バイパス ー>Sagarejo (宿泊地:Tbilisi) 歩行者:1班 和田、新井 2班 石塚、土屋 3班 荒井 ナビ車 安藤 歩行距離:各班29kmの予定が3本の道路に跨り28+29+24=81 合計歩行距離:81km 私はナビ車で1,2班担当なので歩行無し。この日は首都トビリシも歩く予定だったが、オレーグ等の情報によりトビリシを通らずにバイパスを歩く事になる。バイパスは工事中の所があり、距離表示が別になるので、少し注意が必要だった。 8:30 宿出発。 9:15 1班歩行開始。 9:50 2班歩行開始。その後2班の歩行終了地点に行き、ピンクのリボンを巻く。 後のナビ車の仕事は1班、2班の所に戻り、曲がり角等の道の情報を伝え、その後はたまに無事歩いているか、確認することである。 Gori近郊はリンゴの産地らしくトラックにバラズミされている。 ムツヘタ周辺は古い教会が多い 何故か山に高い木が無い 左より通訳のオレグ、和田、新井 迂回したトビリシの町 15:30 2班石塚(左)、土屋歩行終了 土屋氏の嬉しそうな顔、この時の心境を日誌に記している『石塚は上り坂になっても時速6kmでぐいぐい登っていく。どうも上りは弱く太股の上腿部が痛くなりだんだん間隔が開いて行く。・・・・3:30 道が平坦になると何とか追いつけてナビの車が待っている終着ポイント【132/28】の距離表示ポールに石塚より先に飛びつく。今日の29kmは歩きでがあった。並木の幹の向こうは枯れ野原、上空は青、道の先には白い雲が僅かにたなびく。陽は眩しく暑い。』 16:20 1・2班の歩行終了しトビリシの宿に向かう。 17:30 ホテル・ムーザ着。以後このホテルに4泊する。 **句をひねり出す: ジョージアに入国した時、和田「歩いている時、句をひねり出し披露するのはどうだろう」と提案したので、私も挑戦してみた。普段やっていないので四苦八苦していくつかひねり出した。 *グルジアを ワンデイ歩き 汗とマメ *フルーツ食べ 歩きに歩き Gori(ゴリ)の先 *グルジア・ワン ウシ・ウマ・ブタと 秋の花 *トルコ出て トマトとブドウで 600k 一番評判が良かった?のは解説付きの狂歌風 *イエスタン(イスタンブールとイエスタデイの意)いでて トゥディ グルジア歩きだし 明日じゃ無理じゃん 焦るまいじゃん(アゼルバイジャン) 9/12 歩行7日目 歩行区間:Sagarejoー>Bakutskheー>Vardisubani 歩行者:1班 安藤、荒井 2班 和田、土屋 3班 新井 ナビ車 石塚 歩行距離:各班27km 合計歩行距離:81km 9:00 朝食に手間取り出発が遅れる。 10:00 1班歩行開始。52km地点から79km地点を目指す。 14時 69km地点で昼食。 17:00 79km地点到達。今日は若者と農夫と2回不愉快な思いをする。どちらもナビ車が通りかかり無事。 12時頃の風景 遺跡? 14時頃の風景 16時頃の風景 **ある日の夕食:土屋『メニューはギアとオレグの通訳に頼る(二人の飲み物はウォッカ)。いつものようにビール、ワインはボトルで赤と白、つまみに鮭のボイル、例のキュウリとトマトのサラダ、メインは焼き物でビーフ、ポークか鮭があるというので今回は鮭にした。例によってワイン通の諸氏はこの赤は甘い、赤の辛口が飲みたい等といいながらボトルのラベルを眺めている。言われてみれば甘いが飲みやすいので躊躇無く頂く。白はこの甘さが無く、これはこれで飲みやすいので躊躇無く頂く。どの料理も旨かった。』ジョージアはソ連時代高級ワイン生産地だった。ジョージアから日本への土産はワインと黒海産のキャビア(日本の1/10の値段)にした。 9/13 歩行8日目 歩行区間:Vardisubaniー>Lagodekhiー>Tosodna(アゼルバイジャン国境) 歩行者:1班 和田、荒井、ギア 2班 土屋、荒井 3班 安藤、オレグ ナビ車 石塚 歩行距離:1班 12km 2班 10km 3班 4km 全員 1km 合計歩行距離:27km 歩行最終日になってしまった。最後の1kmは全員で歩こうという事になった。 9:40 ホテル出発。歩行開始地点までは130km以上離れているので時間がかかる。 11:00 1班歩行開始。 11:15 2班歩行開始。 11:30 3班(通訳のオレグと)155km地点より歩行開始。 13:40 国境まで1km地点から全員で歩き始める。 13:50 アゼルバイジャン国境に到着。(1km地点から五百メートル弱で国境の建物に着いた気がしたが、0km地点は、この建物の先の本当の国境にあるのだろう。 3班(私の班)歩行開始地点 今日もいい天気だ その先が国境なのに車は通らない 国境まで後1kmだ! 最後の1kmはガイド支援者も含め全員9名で歩く 13:50アゼルバイジャン国境に着いた 夕方、盛大な完歩祝賀会を開く予定が、 予定のレストランが休みで適当な所になってしまった。 **国境にて:土屋『左側に道端に斜めの棚を設けてタバコの葉を干している・・・・直ぐにTSODNA国境の遮断バーに辿り着く。バーの向こうは広くなって左奥にガラスにCUSTOMSの表示のある分厚いコンクリートの天井の下に多面形の受付か事務所のこじんまりした平屋がぽつんとある。その先の遮断バーの向こうにグルジアに入国するのか白いコンテナーのトラックが停まっている。・・・・。ギアがバーを越えて左奥の木陰に座っている人影に向かい何か話しかけてきて我々もバーを越えて良しとなる。ぞろぞろ入り込むが次のバーは駄目である。隣国アゼルバイジャンへの道は小山に遮られてみえない。・・・・。14:20 戻りに遮断バーを出て振り返ると猛烈に達成感を覚えた。新井などは写真を撮るよと言ったら雄叫びを上げて万歳状態。達成の喜びはゴールにタッチした時ではなく通り過ぎたことを振り返えった時に沸き上がるものなのか。・・・・』 私の当時の手記「600kmたどり着いたという感慨なし。今日の歩きが5kmと少なかったためかもしれない」 グルジア(ジョージア)横断歩行: 歩行区間:トルコ国境Sarpiーー>アゼルバイジャン国境Tosodna 歩行日数:8日間 歩行者:6名 合計歩行距離:545km 私の合計歩行距離:144km 9/14~15 歩行は終了したが帰国便は9/16との事で、この間トビリシ市内と近郊(ムツヘタ)観光をする。 トビリシの繁華街 トビリシのムトウクワリ川とムタツミンダ山 ムツヘタのジュワリ大聖堂(6世紀頃の教会) ジュワリ大聖堂から世界遺産ムツヘタの町を見下ろす。 中央にあるのはスベェティ・ツホブェリ大聖堂 ムツヘタの町からジュワリ大聖堂を見上げる スベェティ・ツホブェリ大聖堂 スベェティ・ツホブェリ(聖なる癒しの水の意)大聖堂:内部に癒しの水が飲める部屋がある。10世紀に建てられ現在のようになったのは15世紀。歴代のグルジア王の墓がある。『聖堂に入ると高いドームの丸い部屋、周囲には凹んだ部屋があり像があったりイコンが飾られている。イコンは壁にも並んでいる。正面には聖壇があり前の床には歴代の王や貴族がここに埋葬されていると言う大きなモザイクタイルが目に付く。』 スベェティ・ツホブェリ大聖堂の内部 ヘブリスツィヘ要塞跡 グルジア横断歩行・前 へ戻る ユーラシアを歩く会 へ戻る トップページ へ戻る |