舟は私の遊びの原点
1950?年~~

 
 
子供時代に乗っていた船のイメージ

私の遊びの原点は舟だ。
私が5才の時終戦となり、疎開から帰って来て江戸川区平井に住んでいた。JR総武線で千葉から東京へ向かっていれば新小岩駅を出て荒川放水路の鉄橋を渡り終えた左側(海側)300m程先の土手下に家があった。
終戦直後の平井は空き地や池が点在し、そこでトンボやザリガニを取るのが遊びだった。その頃の荒川(放水路)は水が綺麗で魚(はぜ、うなぎ)も多かった。終戦後5年程経ち生活に余裕が出来た頃、近所の人(高橋さん)が貸ボート屋(ボートと釣り船)を始めた。平井の近くの荒川の川幅は約500mだが現在水の流れているのは中央部100mである。しかし、当時は川幅全体に水が流れていた。ただし、海まで5kmほどなので潮の干満があり、満潮時には川幅全体に水があったが、干潮時には中央部しか水はなく川岸から両側150m程は干潟になっていてシジミが沢山とれた。一日の半分の時間は干潮なので、貸ボート屋は川の中央部までの長い桟橋を造り、干潮時でも舟を貸せるようにしていた。また、桟橋には雨風を防ぐ小屋が作られていた。高橋さんは鰻漁師もしていたので、1年中小屋に居た。1m程の竹筒を多数川底に沈めておく漁法と、鰻掻きといって5cmほどの針状の鎌を長い竹竿の先に着け、船の上から水中の泥に刺して引きずり鰻を引っ掛ける漁法だった。
高橋さんには私より1才年下の遊び友達のミッチャンがいたので、私はすぐにボート屋の常連になった。近所の仲間もう1人を加え、小学校の高学年の頃には放課後、日曜日、夏休みの明るい時間は川の上で過ごした。冬も小屋の風の来ない所で遊んだ。川で泳ぎ、ハゼ釣りをし、ボートを漕いだ。大声を出せば聞こえる所に大人がいるので親も何も言わなかった。その内ミッチャンがいなくてもボート屋に行くようになった。舟が扱えるようになると、高橋さんが忙しい時は舟の出し入れの手伝いをするようになった。おかげで暇な時には、気兼ねなく舟を乗り回した。ここで、オールの漕ぎ方、竹竿1本で舟を操る方法、櫓(ろ)の扱いを身に着けた。その頃の新小岩側の干潟には葦が生えていて所々に水路があったのでボートで水路を行くと、周りには葦と水路以外は見えず、探検気分が味わえた.ジャングルを船で行く気分だった。しかし、私の仲間は中学校を卒業すると来なくなったが、私は高校生になってもボート小屋に通い、ここで受験勉強をしたこともあったし息抜きの場だった。
荒川が水質汚染され、魚が姿を消し、泳げなくなったのは大学を卒業するころだと思うが確かではない。

高橋さんは私の囲碁の師匠でもある。高橋さんの碁敵がよく小屋に来た。2人とも有段者らしく時間をかけてゆっくり打っていた。私は囲碁を知らなかったが見ているうちに覚えた。序盤から終盤まで何回も何回も観戦した。私はいつも黙って見ているだけだったし、2人と囲碁の話をした記憶はない。大学に入学して囲碁部の友人と生まれて初めて囲碁を打った時、実力は1級ほどだと言われた。今でもテレビの囲碁番組はよく見る。

ボート屋で乗った舟

 *ボート:2人乗りのオールでこぐボート、近所の誰よりも早く漕げる自信があった。
 *釣り船:2~3人乗りでオールでこぐ。底が平面になっている。(ボートは底が丸い)
 *競艇用モーターボート:当時中川放水路の小松川橋付近には競艇場があった。高橋さんがそこの払い下げ品のボート手に入れ、子供達を乗せてくれた。すごいスピードで波がある時は波の上を走り、空中を飛んでいるようだったのを覚えている。しかし「ガソリンを物凄く食う」ということで2,3度乗せてもらっただけだった。
 *フネ:モーターボートの廃船直前の船。長さ5m、幅2m、高さ5~60cm程でモーター、屋根等はなく大きなボートの感じ。「フネ」は大きいのでひっくり返る恐れはないし、背が高いので遠くからでもよく見えた。高橋さんはそれを見越して我々のために手に入れてくれたのかもしれない。オールは付けられないので、櫓(ろ)又は竿で漕ぐのだが、すぐに操作を覚えていつの間にか3人の「フネ」になった。「フネ」を借りるお客さんはいないので、日曜日でも探検に行けた。「フネ」で葦のあいだの水路に行き、魚を釣ったり泳いだりして遊んだ。「フネ」が来たのは中学生になった頃だと思うが「フネ」での遊びが何時まで続いたのかは覚えていない。

大学時代に乗った舟
*舵(だ)手付きフォア:大学に入学し、ワンダ-フォーゲルに入部した。ワンゲル活動は月に1度ほどなので、ボート部にも入部した。小さな大学で学生数が少ないため、掛け持ち部活は黙認されていた。艇庫は隅田川沿いにあり、日曜日が練習日である。子供時代のボート漕ぎの腕を発揮し、優勝に貢献するつもりで入部した。しかし、2~3度オールを握らせてくれた後、「お前はコックス(舵手)だ」と言われた。ボートの漕ぎ手の条件は腕力と体力で技術は2の次なのを知った。コックスなら私である必要はない。ということで、2~3度隅田川に通っただけで退部した。
ディンギー(ヨット):ボート部を辞めた足で、同じ部室にあるにヨット部に入部した。練習の場は品川沖である。帆を扱うのは初めてだが、舟の扱いには慣れていたので、直ぐにヨットになじんだ。夏休みはアルバイト後ワンゲルの夏合宿、その後に館山でのヨット部の合宿に遅れて参加した。合宿後は館山から品川までヨットを回航した。秋の横浜合宿、新人戦に出た後やはり2つの運動部の掛け持ちは無理と思い、引き留められたが退部した。

 

その後に乗った舟
宇高連絡船、青函連絡船、鹿児島―屋久島航路、小笠原航路、仙台―苫小牧フェリーに乗ったが、これ等は自分でで操船しなかったので、省略。
*カヌー:2003年北海道の釧路湿原で初めてカヌートリップをするが、カヌーの扱いにはすぐに慣れる。その後四万十川、沖縄、アラスカでも乗る。
*シーカヤック:海で乗るため波で水が入らないように船がカバーで覆われている。また、パドル(櫂)の両端にブレード(水かき)が付いている。2004年沖縄で乗る。海からマングローブ林の沿岸、さらに川を遡上した。子供の頃の荒川放水路の水路を思い出した。

後日水郷潮来を観光した際、船頭にお願いして櫓を漕がせて貰ったが、櫓の扱いは忘れてはいなかった。

 

豪華客船にはまだ乗ったことがない。

偶然ボート屋の息子が遊び友達だったおかげで船という楽しい遊びを知った。もし彼に出会わなかったら、舟という贅沢な遊びには縁が無かっただろう。運命に感謝である。後日登山、スキー等の遊びを始めたのも、舟遊びで体を動かし自然を相手に遊ぶ楽しさ知っていたからであろう。川から山へ遊びの場が移ったわけである。テニスを始めたのは山へ行く体力を保つためと記憶している。
考えてみると、舟は遊び道具で荒川放水路が遊びの場だったから、遊びの原点は荒川放水路なのかもしれない。昔の葦の生えた荒川が。いや、高橋さんが遊びの原点なのかもしれない。

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