高野山・町石道を歩く
2020年11月10~12日
2013.11.1に始めた自転車と徒歩での四国遍路は2016.3.10に結願(けちがん)し、 10番札所でお礼参りを済ませ、更に高野山へのお礼参りのため徳島港から和歌山港へフェリーで渡り、3.12日高野山の下の九度山まで自転車で走り、その回の遍路を終えた。 今回は九度山から高野山奥の院まで町石道を歩き、奥の院で遍路のお礼参りをして来た。 |
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何時か町石道を歩こうと思っていたが東海自然歩道を歩き出したため、機会が無かった。しかし、最近のコロナ騒ぎで海外からの客が減り、紅葉時期の高野山の宿坊の予約が取りやすくなった事、Go
to割引で宿泊代が安い事、で懸案の遍路最終章を歩きに来た。コロナが契機の歩行だが、コロナには最後に泣かされることになった。 町石道(ちょういしみち):九度山町にある慈尊院から高野山へ上る高野参詣道で、弘法大師が切り開き、その後も最もよく使われた主要道である。町石道の名の由来は、鎌倉時代に道標(道しるべ)として、1町(約109m)ごとに「町石(ちょういし)」と呼ばれる高さ約3m強の五輪卒塔婆形の石柱が建てられた事による。高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院までの約22kmの道中に180基、大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4kmの道中に36基の、合計216基の町石が置かれている。慈尊院から数えて36町(1里)ごとには、町石の近くに「里石(りいし)」が合計4基置かれている。現在でも216基の町石のうち179基については当時のものが建立当時のまま残り、今なお昔日の面影を伝えている。 11/10 4時半:自宅出発。 10時:大阪経由で南海電鉄高野線九度山駅着。4年前駅前の急坂をあえぎながら登ったのをなんとなく思い出しながら、歩きだす。10分ほど歩いた所にある「九和楽」で昼食用の柿の葉寿司を購入する。 10:45~11:10:慈尊院(標高70m)。久し振りに般若心経を読む。4年振りなので途中何度も中断する。 慈尊院の外れに150段ほどの階段がある。階段のうえは丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社であり、階段の途中に鳥居が建っている。この鳥居の脇に180町石(最後の町石)があった。歩き始めは柿の木畑の中の結構急な登坂を行く。 11:50~12:10:展望台(166町石)軽い昼食。周りは丁度取り入れ期の柿の木畑、紀の川がよく見える。 13:40:六本杉(136町石)。この辺りはなだらかな林間の歩道だった。 14:20:古峠(標高600m)(124町石)。ここから町石道を離れ、急な下り坂を上古沢駅へ向かう。 16時:上古沢駅(220m)着。ここから電車で高野山へ行き、宿坊(恵光院)で泊まる。 慈尊院 弥勒堂(重文) 階段下は慈尊院、上は丹生官省符神社、途中の鳥居の右に180町石がある。 180町石 丹生官省符神社 179町石、七が読みにくい 柿の木畑の中の町石道 平に見えるが登りの急坂 170町石 展望台からのパノラマ写真 紀の川と橋本市が眼下に望める なだらかな林の中の道 144町石と1里石が並んで建っている 124町石は古峠、ここから上古沢駅に向かう 上古沢駅にて 180町石:最後の町石がなぜ階段の途中にあるのか歩きながら考えた。慈尊院の中にあれば考えることもないのだが。「階段の上の神社も下の慈尊院も空海が創建したものなので、どちらにも偏らないようにその中間に町石の最後(里石の始点)をおいた。」というのが私の推論であった。後日調べた所、紀ノ川の氾濫のため、丹生官省符神社は何回か移転し、明治になってから現在地に移転したとのことであった。慈尊院の境内に移転したとすれば180町石は慈尊院の境内にあったことになる。神仏分離の影響がここにもあるのかもしれない。 町石の間隔は正確か:初めは正確に109m毎に町石があるような気がしていたが、山の中に入るにつれて明らかに間隔が短い町石、長い町石が目立ち始め、間隔が正確ではないと思われる町石が多くなった。山中では重い石柱を建てるにはふさわしくない場所が多いので、仕方がないであろう。間隔は正確ではないと思って歩けば気が楽になる。少なくとも順番が入れ替わった町石は無かった。メジャーで正確に計測したわけではないので、正確には言えないが、正確でない事を確信している。 そもそも町石の起点が曖昧である。起点は壇上伽藍の根本大塔となっているが大塔の何処から測って1町石の位置を決めたのか不明である。 11/11:計画変更。2日目は古峠まで戻り、高野山の大門まで町石道を歩く予定だった。しかし、1日目を歩いての体調及び朝食や電車の時間を考慮すると大門到着が日没ギリギリになりそうなので、上古沢駅から笠木峠(86町石)に登り、そこから町石道を歩く事にする。町石道は1部歩かないが、九度山から奥の院まで連続して歩く事に変わりはない。 6時半:宿坊で朝のお勤めに参加 9時:朝食後バス、ケーブル、電車を乗り継ぎ上古沢駅着。まず線路沿いのなだらかな歩道を歩く。 9:40不動谷川を渡る。車の通れる道だが、意外に急な登りがつずく。 11時:笠木峠(86町石)から町石道に戻る。なだらかな歩道である。 12時半:矢立茶屋(60町石) 13:45:国道横断(40町石) 15:45:大門(だいもん)(6町石)で今日の歩きを終える。 上古沢駅 不動谷川 笠木峠、ここから又町石道 72町石 3里石:72町石と並んで建ってはいなかった 矢立茶屋で名物の焼餅を買って休憩の度に食べる 袈裟掛石 押上石 2本とも53町石?? 珍しく遠くが見える場所に休憩所があった 1里石と36町石を見逃さないように歩いていたつもりが、見逃してしまった。残念!! いよいよ町石も20番台に入った 珍しく橋があった。 左端木の陰に11町石がある。見逃すわけだ。10町石 9町石、 大門 8町石が見つからないまま9町石から300m程歩くと大門に着いてしまった。丁度高野山中心部に向かうバスがあったので後は明日にしようと車中の人となる。 町石は全て建っているのか:歩き始めるまでは全ての町石が建っていると思っていた。しかし、「高野山町石道マップ」というパンフをみると、5本おき程度しか記されていないので、もしかすると現在は抜けている所もあるかもしれない、という懸念も持って歩き始めた。100m程歩いて周りを見ると町石があるので写真を1枚撮り、また歩く。その内全部の写真を撮るのは大変なので偶数個だけ撮る事にする。その内「あれ、・・・町石が見当たらないな」となった。100mおきにあるはずなのに、300m行っても1つも無い。周りは藪もそんなに無く、見通しも悪くはないのに。1つ有れば次は100m先なので見落とすはずはないのに、見つからない。白内障の手術を受けてからは視力も回復したのに。1/5程の町石が見つからない。これだけ多くの町石が見つからないのは全ての町石があるわけではないからだ。と理解すれば納得がいく。歩いている時はそう思っていた。このH.P.を書くにあたり冒頭の「町石道」を引用し「現在でも216基の町石のうち179基については当時のものが建立当時のまま残り」を読んでやはり179基しかないのかと理解した。しかし、さらに調べてみると、216基の町石全てを映した写真を発見した。町石は全て建っているようだ。やはり探し方が雑だったのだろう。また、179基以外の町石は後世に作られた町石なのだろう。 里石(りいし)の不思議:冒頭の町石道の説明にもあるように、里石も4基あるようだ。36町=1里なので36町石の所に1里石があれば不思議ではない。しかし、実際は180-36=144即ち144町石の側に1里石があり、108町石の側に2里石がある。なぜ、そうなのか説明している文献は見つからなかった。歩いている時「もう144町歩いた」だいぶ歩いたな、と考える人と、「あと1里だ」考える人がいるだろうから、せっかく里石を置くのなら逆方向の数字にしたほうが有意義だと考え、里石の数値を決めたのかもしれない。 もう一つの不思議は町石の最後の180町石はあるのに、里石の最後5里石が無いことだ。36町石の脇にある4里石が最後の里石である。(残念ながら私は4里石を見逃さないように歩いのだが、見逃してしまった。)町石の例から類推すると根本大塔の周辺に5里石があるはずだが、無いようである。 11/12 7時:宿坊で護摩供養に参加。 9時~9時半:金剛峯寺見学 10時:大門まで戻り奥の院までの町石道歩きを再開。まず昨日見つけられなかった8町石を探す。 10:40:町石の起点、壇上伽藍の根本大塔着。ここから又奥の院までの新たな36町の町石道が始まる。 11時半:一の橋 12:20~50:奥の院参拝 13:10:中の橋で今回の歩行を終える。 高野山金剛峰寺 金剛峰寺の御朱印 大門前の国道脇に8町石 大門境内に6町石 大門バス停前に5町石 集会所前に4町石 9町石から8町石までの距離は400m近くと思われるが、今までの道と感じが異なり最近出来た道のような気がする。地図を見ると9町石から8町石までの直線距離は100m程である。国道を作る際に町石道を付け替えたのかもしれない。 壇上伽藍内、道路から見える所に2、1町石 町石の起点、根本大塔、奥の院への町石の起点でもある 奥の院への1町石 2町石は綺麗な紅葉の下にあった 2町石 6町石~17町石は町の中、大部分見落とした 17町石、奥の院入口 18町石からは奥の院内 22町石は武田信玄墓所前 奥の院内の町石は苔むして読みにくい 34町石は御廟橋手前 御廟橋、この先は撮影禁止。奥は燈籠堂 奥の院燈籠堂にコロナが:奥の院の最奥、御廟橋を渡ると(ここから撮影禁止)弘法大師の拝殿の燈籠堂がある。燈籠堂に入り参拝した後、堂を出て左側から燈籠堂の裏に行くと弘法大師御廟がある。御廟の地下にはいまでも弘法大師が座禅を組んで瞑想されている、と言われている。この御廟の前で例によりロウソク、線香をそなえて納経をする。読経を終えて燈籠堂の右側にある地下法場入口へ向かう。地下法場とは弘法大師御廟の地下に地下から近ずく通路で、先ほど参拝した御廟の前よりもより弘法大師の近くまで行ける場所である。この地下法場で最後の納経をするのがお礼参りの習わしである。しかし、法場入口には「コロナ対策のため地下法場は閉鎖します」との無情の張り紙。「・・・」。最後の最後で最後が無い。入口の前をしばらくウロウロするがコロナには勝てない。このまま燈籠堂を後にするのも心残りだ。その時思い出した。弘法大師御廟の左側に由来は分からないが納骨堂があった。先ほどは通り過ぎてしまったが納骨堂を最後の参拝場所にしようと再度訪れ、ロウソク1本、線香3本、納札、賽銭そして納経(開経偈、般若心経、光明真言、御宝号、回向文)をする。般若心経を読んでいる途中、目頭が熱くなり声が途切れ途切れになる。納経を終え、燈籠堂を後にして納経所で御朱印を頂いて、7年に及んだ遍路を心置きなく終えることができた。合掌! 奥の院の御朱印 慈尊院の御朱印 インデックス へ戻る |